面倒を金に変える技術

今宵も、路地裏の『bsp(裏・営業マン)』の看板に明かりが灯る。

「マスター、こんばんは……」

力なく扉を開けたのは、入社1年目のバッカスだ。スーツの肩は落ち、ネクタイは少し緩んでいる。

「いらっしゃい、バッカス。また一段と、景気の悪い顔をしてるな」

「……わかりますか。営業に配属されて1年。正直、もう限界かもしれません」

私は何も言わず、冷凍庫から冷え切ったグラスを取り出した。

「数字、社内調整、接待、終わりのない情報収集……。何から手をつければいいのか、自分が何のために動いているのか、もう分からなくなっちゃって。営業って、ただの『便利屋』か『数字を運ぶ機械』なんですかね?」

サーバーから黄金色の液体を注ぎ、白い泡を丁寧に調える。

「大変だな。俺も新人の頃は、毎日が泥沼の中を歩いているようだったよ」

「えっ、マスターでもツラかったんですか?」

「いや」

私はハイネケンを差し出し、軽く笑った。

「仕事を『楽しい』なんて思ったことは一度もない。だから『ツライ』と感じることもなかった。ただ、目の前の霧を晴らすことだけを考えていたからな」

「……全然、慰めになってませんよ」

「ははは。だがな、バッカス。君が今感じているその『ツラさ』は、正解なんだよ。そもそも、仕事というものの正体を知っているか?」

バッカスは冷えたグラスを握りしめ、少し考え込んだ。

「自己実現……とか、誰かの夢を叶えるとか?」

「綺麗事としては100点だが、現場の真理としては0点だ。仕事とは、『誰かが面倒だと思うこと、嫌だと思うこと』を代わりに引き受けること。そのストレスの肩代わりこそが、対価の正体だよ」

バッカスは顔をしかめた。

「それじゃあ、やりがいも何もないじゃないですか。ただの苦行だ」

「まあ待て。喉を潤してから聞きな。サービスだ」

バッカスはハイネケンを煽り、喉を鳴らした。

「……くぅ、うまい。で、その苦行がどう営業に繋がるんです?」

「いいか。例えば洗濯機だ。昔の人は冬の冷たい水で、指をあかぎれにしながら衣類を洗っていた。地獄のような労働だ。それを『面倒だ、嫌だ』と誰もが思った。だから洗濯機が発明された。

洗濯機は『服を洗う機械』じゃない。人間から『洗濯という苦痛な時間』を奪い取る、救世主なんだよ。」

「救世主……」

「営業も同じだ。会社が喉から手が出るほど欲しい『利益』。だが、金を稼ぐという行為は、断られ、頭を下げ、調整に駆けずり回る……最高に『面倒で泥臭い』プロセスだ。会社はその一番キツい部分を、バッカス、君という専門家に外注しているんだよ」

「僕が……面倒を押し付けられているだけ、じゃなくて?」

「逆だよ。君は、顧客が抱えている『解決したいけど、自分では手が回らない面倒事』を肩代わりして、その見返りに価値を受け取る**『問題解決のプロフェッショナル』**なんだ。顧客にとって君は、ただの営業マンじゃない。彼らの重荷を一つ減らしてくれる、唯一のパートナーなんだよ」

バッカスは空になったグラスを見つめ、少しだけ背筋を伸ばした。

「……問題解決の、専門家。そう考えると、明日会うあの気難しい部長も、何かに困ってる一人の人間に見えてくる気がします」

「その視点があれば十分だ。この世の全てのビジネスは、誰かの『面倒くさい』の上に成り立っている。それに気づけば、君の流す汗の価値が変わる」

「マスター、ありがとうございます。……おかわり、ください!」

「よし、明日の君の戦いに免じて、二杯目も俺の奢りだ」

「太っ腹ですね、マスター。……見た目はちょっと、そっちの道の人(反社)みたいに怖いですけど」

私はピシャリとグラスを置いた。

「……やはり、今の話は有償にしようか。延滞利息をつけてな」

「あはは! 冗談ですよ、冗談! 許してください!」

夜は更けていく。バッカスの顔には、店に入ってきた時とは違う、微かな光が宿っていた。

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